立ち木を切るときにおもうこと
数週間前の小春日和に,シイタケづくりのためのクヌギの伐採に立ち会った。里山の管理の重要性を訴えてきた身としては誠に恥ずかしい話だが,チェーンソーを握って立ち木を伐採するのはこれが初めての経験だった。
初心者の私のために,農家の伊藤さんが杉の丸太を用意してくれていた。伊藤さんが刃をあてると,ういろうか羊羹でも切ったかのように丸太の先端がスッと落ちた。「載せるだけで切れますから」という伊藤さんの言葉を信じ,私も見様見真似でチェーンソーを握った。予想はしていたが,ういろうでも羊羹でもない杉の丸太は初心者の握るチェーンソーンに拮抗した。周囲から笑い声が上がる中,何とかコツをつかみ,丸太での練習を終えたときには汗をかいていた。
いよいよ立ち木と対峙するときがきた。倒す方向の面に斜めに切り込みを入れ,その下を水平に切り,いわゆる受け口をつくるやり方を教わった。どれだけの時間がかかったかは分からない。気が付くとクヌギは隣の木に寄りかかっていた。「上手じゃあ」と伊藤さんの伊予言葉がほめてくれた。妙な高揚感と達成感が残った反面,身体じゅうの筋肉は経験のない緊張の末に疲労していた。受け口をつくる際に切り取った半月型の破片を拾いあげた。さっきまで生きていた木の一部はずっしりと重かった。
その夜,一緒に伐採を体験したタイからの留学生に初めて木を切った感想を聞いてみた。すると「少し悲しかったです」と予想もしない言葉が返ってきた。
「タイでは木には魂が宿っていると教えられて育つんです」
木の痛みを感じられるからこそ,かの地では焼畑が最近まで続けられてきたし,経済発展とともにそれを禁止しようという政策も受け入れられたのだろう。この,木に対する一見相反する態度は,木を切って使わなければ生活が成り立たず,一方で切りすぎてしまっても暮らしが立ち行かなくなるという里山で暮らす人々に普遍的にみられる自然との共存の在り方そのものだ。その根底には親から子へ「木も生きものだ」という当たり前の事実をしっかり伝える教育がある。タイの都市で育ったこの青年の中に,木の魂を想う精神が宿っていることに感心し,伐倒の達成感に酔いしれた自分を恥じた。
2022年12月
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